2008年 11月 21日
チェコの教育思想家: ヤン コメンスキー |
マーティンのお母様が教えている学校の建物には、3体の銅像があり、その一つは、ヤン コメンスキー。学校の向かい側の公園にも、コメンスキーの銅像が立派に建っております。
コメンスキーなんて、マーティンに知り合うまで、聞いたことも無かった私。これでも、教育学部出身で、教育哲学のクラス等を必修でとったような覚えはあるのですが、出てくる名前といえば、ルソー、カントぐらい。初めてコメンスキーという教育学者が、チェコでは、最もよく知られていると聞いた時、「どうせ、旧東側諸国にしかしられていない人に違いない!」と、たかをくくっていたのです。なんせ、マーティンと話していると、東側と、日本を含む西側の知識の違いに唖然とすることも多いので。
例えば、私と知り合うまで、オードリーヘップバーンとか、アンネの日記とか、マリーネディートリッヒとか、名前すら聞いたことが無かったのですよ!日本の田舎で育ち、外国のことには全く興味の無かった私の母ですら、オードリーヘップバーンや、マリーネディートリッヒは、有名な女優さんだったということぐらいは知っているのに。特に、マリーネディートリッヒは、お隣の国の女優さんでしょ!アンネの日記だって、アムステルダムが舞台になっているのに!距離が近ければ、知識もあると言う前提がまかり通らない、旧東側と西側の距離を感じますね。
話は、コメンスキーに戻り、早速コメンスキーのことを調べてみました。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
コメニウス(Johannes Amos Comenius, 1592年3月28日 モラヴィア東部(ワラキア)・ニヴニツェ Nivnice/Nivnitz - 1670年11月15日)は、チェコのモラビア生まれの宗教家にして教育者。本名は、ヤン・アーモス・コメンスキー(Jan Ámos Komenský)という。コメニウスはラテン語の執筆活動名。もっともコメンスキーという苗字も生まれた村の名前にちなんで(?)本人が後日考え出した名前だという。
現代の学校での教育すなわち学校教育のしくみを構想した。今日、日本をはじめ多くの国でみられる同一年齢・同時入学・同一学年・同一内容・同時卒業といったしくみは、コメニウスの構想に発するものである。コメニウスは、こうした学校のありかたを通じ、人びとがすべての知識を共有することよって、戦争が終わり、ヨーロッパが一つになると考えた。この考え方は、現在のユネスコに受け継がれている。
モラビア兄弟団あるいは共同生活の兄弟団というプロテスタントの一派の代表の1人で、その教団の営む教育施設の監督を勤めた。早くから全ヨーロッパにその知性と見識が知れ渡り、三十年戦争およびその後の宗教戦争で故国を追われ、終生、故郷に戻ることはかなわなかったものの、学校改革の指導者、教育改革の提言者にして、宗教的な福音の宣教者として、ヨーロッパ中の宮廷や議会から助言を求められ、そのなかには宰相リシュリュー、スウェーデン宰相オクセンシェルナ、ドイツ、ハンガリーの諸侯にイギリス議会、アムステルダム市会も含まれていたというから、その評価の高さは言わずと知れるだろう。
コメニウスの主著は、ラテン語教育の手法を軸に教育学そのものの体系を考案した『大教授学』、『開かれた言語の扉』の他に、世界初の子供のための絵入り子供百科事典『世界図絵』が含まれる。これは、この世界から人体、職業、徳目や世界的な諸宗教に至るまで、偏見のない普遍的な教養のありようを、各ページごとに上に絵、下にその説明を配するといった、科学的な話題について、現在と若干の学問的な進歩の差がみられることを除けば、レイアウトさえ新しくすれば今でもそのまま通用しそうな高水準のものである。
また、コメニウスは、ライフサイクルの全般を通しての生涯学習を初めて体系的に語った教育学者でもあり、そのなかには、誕生前の母親に対しての教育、母親教育から高齢期には、みずからの死への心の準備、死の受容といった今日的な観点も含まれている。
[編集] 主要な著書
* 開かれた言語の扉
* 地上の迷宮と魂の楽園
* 大教授学
* 世界図絵
* エリアの叫び
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コメニウスという名前で知られていたんですね。それにしても、とても偉大な思想家。彼の著作を読んでみたいなと思いました。チェコは、小国ながら、偉大な人材を多く生み出した国です。
コメンスキーなんて、マーティンに知り合うまで、聞いたことも無かった私。これでも、教育学部出身で、教育哲学のクラス等を必修でとったような覚えはあるのですが、出てくる名前といえば、ルソー、カントぐらい。初めてコメンスキーという教育学者が、チェコでは、最もよく知られていると聞いた時、「どうせ、旧東側諸国にしかしられていない人に違いない!」と、たかをくくっていたのです。なんせ、マーティンと話していると、東側と、日本を含む西側の知識の違いに唖然とすることも多いので。
例えば、私と知り合うまで、オードリーヘップバーンとか、アンネの日記とか、マリーネディートリッヒとか、名前すら聞いたことが無かったのですよ!日本の田舎で育ち、外国のことには全く興味の無かった私の母ですら、オードリーヘップバーンや、マリーネディートリッヒは、有名な女優さんだったということぐらいは知っているのに。特に、マリーネディートリッヒは、お隣の国の女優さんでしょ!アンネの日記だって、アムステルダムが舞台になっているのに!距離が近ければ、知識もあると言う前提がまかり通らない、旧東側と西側の距離を感じますね。
話は、コメンスキーに戻り、早速コメンスキーのことを調べてみました。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
コメニウス(Johannes Amos Comenius, 1592年3月28日 モラヴィア東部(ワラキア)・ニヴニツェ Nivnice/Nivnitz - 1670年11月15日)は、チェコのモラビア生まれの宗教家にして教育者。本名は、ヤン・アーモス・コメンスキー(Jan Ámos Komenský)という。コメニウスはラテン語の執筆活動名。もっともコメンスキーという苗字も生まれた村の名前にちなんで(?)本人が後日考え出した名前だという。
現代の学校での教育すなわち学校教育のしくみを構想した。今日、日本をはじめ多くの国でみられる同一年齢・同時入学・同一学年・同一内容・同時卒業といったしくみは、コメニウスの構想に発するものである。コメニウスは、こうした学校のありかたを通じ、人びとがすべての知識を共有することよって、戦争が終わり、ヨーロッパが一つになると考えた。この考え方は、現在のユネスコに受け継がれている。
モラビア兄弟団あるいは共同生活の兄弟団というプロテスタントの一派の代表の1人で、その教団の営む教育施設の監督を勤めた。早くから全ヨーロッパにその知性と見識が知れ渡り、三十年戦争およびその後の宗教戦争で故国を追われ、終生、故郷に戻ることはかなわなかったものの、学校改革の指導者、教育改革の提言者にして、宗教的な福音の宣教者として、ヨーロッパ中の宮廷や議会から助言を求められ、そのなかには宰相リシュリュー、スウェーデン宰相オクセンシェルナ、ドイツ、ハンガリーの諸侯にイギリス議会、アムステルダム市会も含まれていたというから、その評価の高さは言わずと知れるだろう。
コメニウスの主著は、ラテン語教育の手法を軸に教育学そのものの体系を考案した『大教授学』、『開かれた言語の扉』の他に、世界初の子供のための絵入り子供百科事典『世界図絵』が含まれる。これは、この世界から人体、職業、徳目や世界的な諸宗教に至るまで、偏見のない普遍的な教養のありようを、各ページごとに上に絵、下にその説明を配するといった、科学的な話題について、現在と若干の学問的な進歩の差がみられることを除けば、レイアウトさえ新しくすれば今でもそのまま通用しそうな高水準のものである。
また、コメニウスは、ライフサイクルの全般を通しての生涯学習を初めて体系的に語った教育学者でもあり、そのなかには、誕生前の母親に対しての教育、母親教育から高齢期には、みずからの死への心の準備、死の受容といった今日的な観点も含まれている。
[編集] 主要な著書
* 開かれた言語の扉
* 地上の迷宮と魂の楽園
* 大教授学
* 世界図絵
* エリアの叫び
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コメニウスという名前で知られていたんですね。それにしても、とても偉大な思想家。彼の著作を読んでみたいなと思いました。チェコは、小国ながら、偉大な人材を多く生み出した国です。
by krkonose
| 2008-11-21 12:30
| 異文化