2009年 08月 25日
メイン州&プリンスエドワード島への旅⑨: Acadians |
Acadianは、1604年を皮切りに、フランスの中部から、奨励されて、最初に、現在で言うNova Scotia州に渡ってきた入植者達、その子孫のことです。彼らが築いた、ヨーロッパ人による、北米最初の植民地が、「Acadie」と呼ばれたことから、Acadianと呼ばれるようになりました。写真は、Acadianの旗。 Acadianの民族歌まであるし、Acadianのコミュニティーの人たちのための新聞まで見ました。凄いですね~。
その後、Acadian達は、主にNew Brunswick州、 Nova Scotia州、 Prince Edward州に移住したため、現在でも、この東部3州には、Acadianのコミュニティが多く存在します。Acadianの人たちのコミュニティは、町や村の名前がフランス語だったり、標示や看板がフランス語だけのことが多く、お家やお店等にAcadianの旗をたくさん飾っているので、すぐに分かります。
8月15日は、国指定のAcadianの日。毎年、何千人ものAcadianが集い、お祝いが行われます。Acadianの人達は、自分達を他のフランス系カナダ人とは区別し、最初の移住から400年以上経った現在でも、Acadianとしてのアイデンティティを、大切に保持していることに、とても感心しました。
現在、プリンスエドワード島の大多数は、イギリス、アイルランド、スコットランド系ですが、島の人口の4分の1は、Acadian。この島のAcadianに多い苗字は、「Arsenault」と「Galllant」。New BrunswickのAcadianに多い苗字は、「LeBlonc」だと教わりました。プリンスエドワード島は、1700年代に、フランスがイギリスとの領土争いに敗れるまで、Ile Saint-Jeanと呼ばれていたのですよ。
私が、初めて「Acadian」という言葉を耳にしたのは、大学時代にカナダにホームステイした時。ホストマザーが、自分はフレンチで、「Acadian」だと教えてくれたのです。彼女は、New Brunswick出身で、苗字は「LeBlond」。同じ苗字の人が、近所にたくさんいたらしいです。それ以来、「Acadianは、フランス系カナダ人の中でも、北東部に住む、特殊なグループ」ぐらいの認識しかありませんでしたが、今回の旅で、島の南西部のMiscoucheという町にあるAcadian Museumを訪れたり、実際にAcadianのコミュニティに立ち寄ったりして、初めて、Acadianについて詳しく学ぶ機会となりました。アトランティックカナダを語るには、「Acadian」の人たちの存在は、欠かせませんからね!
Acadianの人達が、400年経った現在でも、どうして自分達が「フランス系カナディアン」ではなく、「Acadian」であることにこだわりつづけているのか、不思議でしたが、彼らの御先祖様がたどった過酷な歴史を学ぶと、その理由が理解できる気がします。
フランスとイギリスの、北米植民地をめぐる戦争が始まっても、Acadian達は、中立を保とうとしたのですが、1713年、フランスは、Acadieをイギリスに譲る条約にサイン。1755年から1763年にかけて、Acadian達は、本国フランスへ強制送還されました。フランスに強制送還されたうちの、約1720人は、船の遭難で溺れて亡くなり、数百人は、航海中に、病気で亡くなりました。船の中は極悪なコンディションで、1日に、カビの生えたビスケットを一つと、塩漬けのお肉を一切れ。運良く、命からがらフランスに到着した人達も、祖国フランスからは、受け入れてもらえず、港の特別な施設に収容されたり、船の中にそのまま残された後、ルイジアナ州に送還されました。
Nova Scotia に残ろうとしたAcadian達は、英国軍に村を焼き払われ、送還される前に、New Brunswick州の東海岸等に逃亡したAcadian達も、貧苦と極寒の過酷な生活を強いられる羽目に。
英国との争いが治まった後は、Acadian達は、東部3州の至る所に移住し、基本的に、イギリス系の地主の小作人として搾取されながら、または、漁業に携わりながら、貧困の下、イギリス系の住民とはかかわることなく、自分達の結束を強く保ってきました。1860-1930年の間には、教育を受けた人たちが、政治のリーダーとして台頭し、フランス語の学校を設立したりして、Acadianのコミュニティーの社会的、政治的、経済的地位の向上に努めました。
私の要望で、島の南西部Evangeline地区の、Abram-Villageという、Acadianの村のコミュニティセンターで、伝統的なAcadian料理が食べられるという話を聞き、早速行ってみました。そこでも、ロブスターの大きなハサミを見て、大喜びのルツカさんです。
本当に、公民館のような場に、テーブルがあり、キッチンがあり、ウェイトレスの女性達も、皆、本当に親切。親子3人、楽しいお昼をとることが出来ました。紙で出来た素朴なプレースマットも、漁師さんの絵で、なかなか地元の情緒が醸し出されていますね。ロブスター、ムール貝、お魚料理、新鮮な海の幸をふんだんに使ったお料理が気軽に食べられる、お勧めスポット。もちろん、お肉料理もあります。メニューはとても豊富です。マーティンは、ニューオーリンズの名物、Cajun風ガンボを注文。シーフードやお魚がたくさん入っていて、絶品でした。
そして、私は、念願のAcadianの伝統料理に挑戦!ケベック料理と同様、ミートパイ付き。でも、ケベックで食べたミートパイの方が美味しかった。中央下は、「Rapure」という、ポテトと豚肉を使ったケーキの様なもの。全体的に、とても薄味で、当時の人たちの、素朴な食生活が感じられました。
さて、マーティンが注文したデザート、「Poutine」。シンプルなパン生地に、ジャムが入っていて、黒砂糖のシロップをべっとりかけて食べます。
これが、シンプルなのに、絶品!
やはり、北米本土と同様、繊細な味のものを食べるには、フランス語圏に行かねばだめだな~と、改めて実感した瞬間でした。
その後、Acadian達は、主にNew Brunswick州、 Nova Scotia州、 Prince Edward州に移住したため、現在でも、この東部3州には、Acadianのコミュニティが多く存在します。Acadianの人たちのコミュニティは、町や村の名前がフランス語だったり、標示や看板がフランス語だけのことが多く、お家やお店等にAcadianの旗をたくさん飾っているので、すぐに分かります。
8月15日は、国指定のAcadianの日。毎年、何千人ものAcadianが集い、お祝いが行われます。Acadianの人達は、自分達を他のフランス系カナダ人とは区別し、最初の移住から400年以上経った現在でも、Acadianとしてのアイデンティティを、大切に保持していることに、とても感心しました。
現在、プリンスエドワード島の大多数は、イギリス、アイルランド、スコットランド系ですが、島の人口の4分の1は、Acadian。この島のAcadianに多い苗字は、「Arsenault」と「Galllant」。New BrunswickのAcadianに多い苗字は、「LeBlonc」だと教わりました。プリンスエドワード島は、1700年代に、フランスがイギリスとの領土争いに敗れるまで、Ile Saint-Jeanと呼ばれていたのですよ。
私が、初めて「Acadian」という言葉を耳にしたのは、大学時代にカナダにホームステイした時。ホストマザーが、自分はフレンチで、「Acadian」だと教えてくれたのです。彼女は、New Brunswick出身で、苗字は「LeBlond」。同じ苗字の人が、近所にたくさんいたらしいです。それ以来、「Acadianは、フランス系カナダ人の中でも、北東部に住む、特殊なグループ」ぐらいの認識しかありませんでしたが、今回の旅で、島の南西部のMiscoucheという町にあるAcadian Museumを訪れたり、実際にAcadianのコミュニティに立ち寄ったりして、初めて、Acadianについて詳しく学ぶ機会となりました。アトランティックカナダを語るには、「Acadian」の人たちの存在は、欠かせませんからね!
Acadianの人達が、400年経った現在でも、どうして自分達が「フランス系カナディアン」ではなく、「Acadian」であることにこだわりつづけているのか、不思議でしたが、彼らの御先祖様がたどった過酷な歴史を学ぶと、その理由が理解できる気がします。
フランスとイギリスの、北米植民地をめぐる戦争が始まっても、Acadian達は、中立を保とうとしたのですが、1713年、フランスは、Acadieをイギリスに譲る条約にサイン。1755年から1763年にかけて、Acadian達は、本国フランスへ強制送還されました。フランスに強制送還されたうちの、約1720人は、船の遭難で溺れて亡くなり、数百人は、航海中に、病気で亡くなりました。船の中は極悪なコンディションで、1日に、カビの生えたビスケットを一つと、塩漬けのお肉を一切れ。運良く、命からがらフランスに到着した人達も、祖国フランスからは、受け入れてもらえず、港の特別な施設に収容されたり、船の中にそのまま残された後、ルイジアナ州に送還されました。
Nova Scotia に残ろうとしたAcadian達は、英国軍に村を焼き払われ、送還される前に、New Brunswick州の東海岸等に逃亡したAcadian達も、貧苦と極寒の過酷な生活を強いられる羽目に。
英国との争いが治まった後は、Acadian達は、東部3州の至る所に移住し、基本的に、イギリス系の地主の小作人として搾取されながら、または、漁業に携わりながら、貧困の下、イギリス系の住民とはかかわることなく、自分達の結束を強く保ってきました。1860-1930年の間には、教育を受けた人たちが、政治のリーダーとして台頭し、フランス語の学校を設立したりして、Acadianのコミュニティーの社会的、政治的、経済的地位の向上に努めました。
私の要望で、島の南西部Evangeline地区の、Abram-Villageという、Acadianの村のコミュニティセンターで、伝統的なAcadian料理が食べられるという話を聞き、早速行ってみました。そこでも、ロブスターの大きなハサミを見て、大喜びのルツカさんです。
本当に、公民館のような場に、テーブルがあり、キッチンがあり、ウェイトレスの女性達も、皆、本当に親切。親子3人、楽しいお昼をとることが出来ました。紙で出来た素朴なプレースマットも、漁師さんの絵で、なかなか地元の情緒が醸し出されていますね。ロブスター、ムール貝、お魚料理、新鮮な海の幸をふんだんに使ったお料理が気軽に食べられる、お勧めスポット。もちろん、お肉料理もあります。メニューはとても豊富です。マーティンは、ニューオーリンズの名物、Cajun風ガンボを注文。シーフードやお魚がたくさん入っていて、絶品でした。
そして、私は、念願のAcadianの伝統料理に挑戦!ケベック料理と同様、ミートパイ付き。でも、ケベックで食べたミートパイの方が美味しかった。中央下は、「Rapure」という、ポテトと豚肉を使ったケーキの様なもの。全体的に、とても薄味で、当時の人たちの、素朴な食生活が感じられました。
さて、マーティンが注文したデザート、「Poutine」。シンプルなパン生地に、ジャムが入っていて、黒砂糖のシロップをべっとりかけて食べます。
これが、シンプルなのに、絶品!
やはり、北米本土と同様、繊細な味のものを食べるには、フランス語圏に行かねばだめだな~と、改めて実感した瞬間でした。
by krkonose
| 2009-08-25 05:06
| 旅行